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このまちディクショナリー~板橋区編~

板橋区は、充実した商店街・商業施設、住環境などから、暮らしやすい街として人気が高いエリアです。日経BP社による「共働き子育てしやすい街ランキング」で、都内はもちろん全国でも10位以内にランクインしたこともあるなど高い評価を得ています。

560メートルも続くアーケードに、イベントなどでもにぎわいを見せる「ハッピーロード大山商店街」は板橋区のシンボルのひとつです。また、都市公園等の数は東京23区で6位、面積は8位と公園・緑地が充実しているほか、「荒川」の河川敷もあり、緑や自然が豊かな区でもあります。

江戸時代には「中山道」「川越街道」など当時の主要な街道が通っていた板橋エリアですが、現在も首都高速の幹線道路が通り、陸路の要衝としての特徴は引き継がれています。また、区内には東武東上線、都営地下鉄三田線、JR埼京線、東京メトロ有楽町・副都心線の4つの路線があり、区内や都心方面への通勤・通学にも便利なことも魅力です。

旧・板橋宿(仲宿)

板橋(橋と桜)

■1 近世までの板橋エリア

鎌倉時代末期の『延慶本平家物語』に、1180年、源頼朝が「武蔵国豊島ノ上滝野川ノ板橋」に布陣したと著されていることから、「板橋」の地名は、800年以上前の平安時代末期からあります。地名の由来は「石神井(しゃくじい)川」に架けられていた小橋といわれています。

「武蔵野台地」から「荒川低地」を見晴らす崖線上には「赤塚城」「志村城」など、戦国時代の平山城跡も見られます。現在、「赤塚城」跡付近には「赤塚溜池公園」が、「志村城」跡には「板橋区立志村小学校」「志村熊野神社」などがあります。

江戸時代になると五街道の一つである「中山道」が整備されます。当時、全国統一のために街道整備は重要な意味を持ちました。
板橋には、「板橋宿」が置かれ、「江戸四宿」の一つとして、この地域の中心地となりました。板橋は、「中山道」起点である日本橋から約9 kmという近さにあり、「サカムカエ」という、お見送りやお迎えに行く境・坂、江戸の玄関口として、多くの旅人や江戸庶民が訪れるにぎわいの地としても発展しました。
また、日本橋を起点とする全国の街道沿いに一里(約4km)ごとに築いた「一里塚」のひとつである「志村一里塚」は、現存し国の史跡に指定されています。

「板橋宿」は、京側より「上宿」(現・本町周辺)、「仲宿」(現・仲宿周辺)、「平尾宿」(現・板橋一丁目周辺)からなり、それぞれ名主がおかれ、「平尾宿」の途中に「中山道」と「川越街道」の分岐点「平尾追分」もありました。図は江戸末期の1835年に描かれた『木曾街道板橋之駅』で、「平尾宿」の「日本橋」側の入口が描かれています。

「板橋宿」の北東、「石神井川」沿いの風光明媚な地に、江戸周辺で最大の敷地の大名屋敷「加賀藩前田家下屋敷」が置かれました。「加賀藩」は大砲・火薬製造の技術を持っており、幕末期には江戸防衛のため「加賀藩前田家下屋敷」でも大砲・火薬の製造が行われました。製造には「石神井川」の水車が動力として使用されました。

江戸末期には「徳丸ヶ原」で日本初の西洋式砲術訓練も行われました。現在の「高島平」の地名は、このときの砲術家・高島秋帆に因んで命名されています。

木曾街道板橋之駅(国立国会図書館蔵)

高島四郎太夫砲術稽古業見分之図(板橋区立郷土資料館蔵)

■2 明治~大正期の板橋エリア

幕末期に大砲・火薬製造を行っていた「加賀藩前田家下屋敷」は、明治に入ると引き続き、陸軍の火薬工場となります。その後、一帯は陸軍の軍事施設が集積する地へと発展します。そのため、現在の「加賀公園」は、「加賀藩前田家下屋敷」の跡地であると同時に「陸軍板橋火薬製造所」の跡地でもあり、公園の中央には大名庭園時代の築山の一部も残るほか、火薬製造所の痕跡も多く残ります。

1885年には日本鉄道(現・JR埼京線)の「板橋駅」が開業、旅客のほか貨物の扱いも始まり、交通の要衝としても発展。1889年の「町村制」施行で旧「板橋宿」一帯は「板橋町」となりました。東京が都市として拡大していく中で、鉄道や道路の整備とともに、広い敷地、きれいな空気といった環境を求めて、競馬場、養育院、病院、牧場など、大規模な施設が新設、または都心部より移転してくるようになりました。

加賀公園(「加賀藩前田家下屋敷」跡地、「陸軍板橋火薬製造所」跡地)

板橋駅

■3 昭和戦前期の板橋エリア

板橋区は1932年、東京市域の拡大の際、新設20区のうちの一つとして発足しました。その範囲は、東京府北豊島郡のうち、板橋町、上板橋村、志村、赤塚村、練馬町、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村の9町村で、その中心となる板橋町の「板橋」が区名にも採用され、区役所も旧・板橋町に置かれました。

当初の9町村のうち、練馬町、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村は現在の練馬区域にあたります。現在の練馬区域は当初は板橋区に属していましたが、区役所が遠いことなどから戦前期から独立運動があり、戦後の1947年に分離独立、概ね現在の板橋区と練馬区の区域が誕生となりました。

昭和戦前期は、東京の都市の拡大に伴い、板橋区を含む、西郊の「武蔵野台地」上を中心に各地で土地区画整理が行われ住宅地などが整備されました。

昭和戦前期の板橋区においては、時局柄、国産化も急がれていた光学産業など、軍需産業の工場も立地しました。工場が増えると工員のための住居や市電などの整備も進められ、家族を含め住民も増加、駅前を中心に商業地も発展しました。写真は現在の小豆沢の様子です。

また、良質な住宅地の整備も進められ、特に「東武鉄道」が自社の土地に計画的に整備し1936年に分譲を開始した「常盤台住宅地」は評価が高く、現在は人気の高級住宅地となっています。

現在の小豆沢

常盤台の街並み

■4 戦後~現在の板橋エリア

戦後、国内で軍需工業から平和産業への転換が行われる中で、板橋エリアで盛んだった光学産業は、カメラなど民需品の生産へ転換し引き続き発展しました。また、印刷関連、食品関連など、都市近郊の立地を生かした工業も発達、スパイスなどを製造販売する「エスビー食品株式会社」、管楽器メーカー「日本管楽器(ニッカン)」など、板橋区を拠点に日本を代表するメーカーへ成長した会社も多くあります。

現在も区内で生産を続ける工場がある一方で、近年、工場機能を郊外に移転した会社もあり、広大な工場跡地を活用した大規模なマンションや商業施設も多く見られるようになりました。

1966年から「板橋土地区画整理事業」が「日本住宅公団」(現・UR)により施行され、1969年「高島平団地」が着工、1972年に竣工・入居開始となりました。「高島平団地」は賃貸が8,287戸、分譲が1,883戸の計10,170戸からなり、単体の団地としては日本最大の戸数を誇る大規模団地です。

戦前期から住宅地としても発展したことから、各駅周辺は商店街も発達しました。特に旧「板橋宿」沿いの「仲宿商店街」や「大山駅」前のアーケード商店街「ハッピーロード大山」はにぎわう商店街として、全国的に有名です。約200店舗が軒を連ねる「ハッピーロード大山商店街」の誕生は1978年。同年にオープン予定だった池袋のサンシャインシティに負けない盛り上がりを目指した同商店街は、全国の商店街に先駆けての共通ポイントカードの導入や全国ふる里ふれあいショップ「とれたて村」の開催など、設立当初から現在までさまざまな取り組みが続き、訪れる人々を楽しませています。

高島平団地

ハッピーロード大山

■5板橋エリアの将来計画

江戸時代より主要な街道が通っていたこの板橋エリアでは、現在は「大山町クロスポイント周辺地区」「大山町ピッコロ・スクエア周辺地区」「板橋駅板橋口地区」など、大型の再開発が行われています。

「大山町クロスポイント周辺地区」の再開発では同時に都市計画道路の整備も行われており、「ハッピーロード大山」のアーケード商店街は分断されてしまいますが、商店街の連続性を確保できる設計となっており、市街地の安全性の向上、高層マンションの建設による住民の増加なども期待できます。

「板橋駅」西口では「板橋駅板橋口地区」「板橋駅西口地区」の2つの市街地再開発事業と「板橋駅西口駅前広場整備計画」が進行中です。

「板橋駅板橋口地区」は2028年の竣工予定で行われている再開発です。「西口駅前広場」のすぐ西に位置するA街区には地上37階・地下2階のタワーマンションが、その北側に位置するB街区には店舗やオフィスが入る地上6階のビルが建設されます。
※板橋区HP https://www.city.itabashi.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/006/328/attach_95595_1.pdf

現在の「板橋駅」西口の「板橋駅前広場」は1968年に完成したもので、老朽化、安全面、機能面で課題を抱えており、上記の2つの再開発を契機に「板橋駅西口駅前広場整備」が進められることになりました。「安心・安全な駅前広場」「板橋区の玄関・顔にふさわしい駅前広場」「にぎわいや憩いのある駅前広場」を整備目標に再開発事業と調和を図りながら整備が進められる予定です。

大山町クロスポイント市街地再開発事業の整備イメージ(川越街道から見たイメージ)

大山町クロスポイント市街地再開発事業の整備イメージ(東武東上線から見たイメージ)

■6 伝統・文化 ミニコラム「東京染小紋」

極小の柄の模様が繰り返し描かれた染め物である「小紋」。江戸小紋は、一色染が基本であることもあり、遠くから見るとまるで無地染めのようにも見えます。江戸時代に、諸大名が、藩を区別するために裃に模様を染めることで発達したとされています。板橋区に工房のある「江戸小紋染工房 小林染芸」では、訪問着や帯の他にも、高度な技術を活かし、Tシャツや扇子、財布なども製造しています。

東京染小紋の「江戸小紋染帯」