江戸時代から受け継がれてきた、東京独自の伝統工芸「江戸刺繍(えどししゅう)」。
絹糸や金銀糸を使い、ひと針ひと針ていねいに縫い上げる華やかな技は、いまも職人の手で守られています。今回は、その歴史や製法についてご紹介します。
「江戸刺繡」の定義について
まずおさえておきたいのは、「江戸刺繍」にはいくつかの決まりがあるということ。
・生地の上にすべて手作業で繍加工をしたものであること。
・刺繍糸は絹糸、本金糸、本銀糸、平金、平銀、紛金、紛銀、漆糸を使用したものであること。
・繍下地は絹織物または麻織物等を使用すること。
これらの条件を満たすことで、初めて「江戸刺繍」と呼ばれるのです。
町人文化と武家文化の中で花開いた「江戸刺繍」
江戸刺繍は、17世紀初頭の江戸時代に、庶民文化と武家文化の中で発展しました。
江戸幕府の安定により町人に経済的余裕が生まれると、衣服や小物にも華やかさを求める文化が生まれました。派手すぎず洗練された色やデザインを好む町人の需要が、刺繍技術の発展を後押ししたのです。
一方、武家社会でも江戸は重視されました。直垂(ひたたれ)や狩衣(かりぎぬ)などの装束に施される刺繍は、格式や地位を示す手段として使われ、職人たちはより精緻で多彩な技法を磨くことになりました。
さらに江戸の職人文化も、刺繍の発展に大きく寄与しました。職人同士の技術競争により、色彩表現や立体感、金銀糸の使い方が高度化。刺繍は衣装だけでなく、小物や屏風、掛け物へと広がっていきました。
こうした背景が重なり、江戸刺繍は町人・武家・職人の技が交わる、独自の文化として花開いたのです。
金糸を用いた刺繍による、江戸時代の浴衣模様
金糸を用いた刺繍による、江戸時代の浴衣模様
江戸刺繍の特徴
日本には、京都の京繍(きょうぬい)、石川の加賀繍(かがぬい)、そして江戸刺繍と、三大刺繍と呼ばれる伝統技法があります。それぞれに個性があり、使われる場面や表現の仕方も少しずつ違います。
●京繍(京都)
皇室や公家文化を背景に発展した京繍は、格式高く豪華な装束が特徴です。金銀糸を多く使い、立体感や輝きを重視した伝統的な文様が中心で、婚礼衣装や能装束など、格式ある場で用いられます。
●加賀繍(石川)
加賀繍は、花鳥風月や自然の風景を、まるで絵画のように陰影やグラデーションで表現するのが特徴です。細かい縫い目で繊細に描かれるため、加賀友禅と組み合わせた衣装や屏風などに美しく映えます。
●江戸刺繍
江戸刺繍は、町人や武家の文化の中で育まれました。日常の衣装や小物にも華やかさを添え、色彩や模様には軽やかさと明るさがあります。技法も遊び心たっぷりで、色糸の重ね方や平刺し、打ち込み、重ね刺しを使って立体感を生み出します。振袖や巾着、屏風など、日常と特別な場の両方で楽しむことができるのも魅力です。
花柄刺繍を施した、上品な装飾扇子
刺繍入りの花柄シルクパネルを使用した、上品な屏風
製法 — 技法と工夫で生まれる立体感と表現力
江戸刺繍は、一針一針に職人の技と感性が込められ、色彩や立体感、陰影まで巧みに表現されます。ここでは代表的な技法とその特徴、効果についてご紹介します。
1. 平刺し(ひらざし)
• 特徴・効果:糸を布の上に平らに並べ、重ね方や方向を工夫することで、花弁や葉の微妙な色の移ろいを自然に表現。光の角度で立体的に見える。
• 使用例:花や草木の図柄、絵画的な刺繍部分
2. 金銀刺繍(きんぎんししゅう)
• 特徴・効果:金糸・銀糸を刺すことで光を反射させ、豪華さや立体感を演出。他の色糸と組み合わせると奥行きや陰影も表現可能。
• 使用例:武家の直垂や狩衣、格式ある小物や屏風
3. 打ち込み・重ね刺し
• 特徴・効果:糸を何層にも重ねることで厚みや立体感を出す技法。花や鳥の羽根、果物の丸みなど、自然の形状や質感をリアルに再現することができる。
• 使用例:花の中心、鳥の羽、果物や実物の立体表現
4. 縁取り・影刺し
• 特徴・効果:模様の輪郭を縁取ったり、陰影を入れることで奥行きや立体感を強調。全体の構図を引き締め、視線を誘導する。
• 使用例:振袖や小物の模様、図柄の輪郭強調
5. 筋縫い・波縫い
• 特徴・効果:布地の流れに沿って刺すことで、風や水の動き、布の柔らかさを表現。衣装が動いたときに自然な陰影や質感を生みだす。
• 使用例:波や風の表現、布のしなやかさを見せたい部分
6. 組み合わせによる立体表現
これらの技法は単独で使われることもありますが、組み合わせることでさらに複雑で豊かな表現が可能になります。例えば、平刺しで花弁を描き、金銀刺繍で光を当て、打ち込みで厚みを出すことで、平面の布の上に本物の花のような立体感を生み出します。
江戸刺繍の職人は、図案を布に写す段階から糸の色や刺す順序まで細かく計算し、完成までに何百時間、場合によっては何千時間もの手仕事を重ねます。その結果、光の角度や見る位置によって表情が変わる、まるで絵画や彫刻のような刺繍作品が完成するのです。花鳥風月や季節の情景が、布の上でいきいきと息づくのは、この精緻な技法の積み重ねによるものです。
東京にある法華宗修性院の暖簾に、金糸で鳳凰の尾が刺繍されています。
江戸刺繍を施した着物
(まとめ)
今も職人たちの手で受け継がれる江戸刺繍。衣装や小物に華やかさを添えながら、現代の暮らしや表現にも息づいています。一針ごとに込められた技と心が、江戸の文化と時代をそっと伝えてくれるのです。