LanguageLANG
Column

このまちディクショナリー~葛飾区編~

葛飾区は、東京都23区の中で、「柴又」エリアなど、下町情緒あふれる街として知られています。同時に他にも、東京23区で最大規模の公園である都立水元公園のある水元公園(町名)、再開発の進む金町や新小岩など、さまざまな個性のあるエリアで構成されています。

下町らしさはランキングにも表出しており、「下町情緒が残っていると思う区」(「ねとらぼ」調べ、2022年)のランキングでは1位。また、「本当に住みやすい街大賞」(「アルヒ」調べ、2023年)では新小岩が関東3位、23区内では1位に入るなど、都心へのアクセスの良さと、物価や家賃などを含めた「生活のしやすさ」も近年高く評価されています。

また、日本の中で「葛飾=下町」のイメージを定着させたのは、国民的映画『男はつらいよ』と、国民的漫画『こち亀』の存在でしょう。これらの作品の中で登場する下町の風景や人間模様は、多くの人々の脳裏に刻み込まれています。

『男はつらいよ』寅さん像のある柴又駅

帝釈天参道

■1 先史時代の葛飾区

太古の時代、葛飾は海の底にありました。その後、最終氷河期による地球全体の極冷化とそれに伴う氷河の発達により、海水面が低下し陸地化します。葛飾区を含む現在の東京湾には、古東京川と呼ばれる川が流れ、谷や丘などのある起伏のある地形であったようです。温暖化に伴い再び海水面が上昇、海底化という歴史を経て、約2000年前の弥生時代後期から完全に陸地化し、人が暮らし始めました。

葛飾にあるもっとも古い定住の跡は、青戸にある「御殿山遺跡」で、4世紀頃のものとされています。環状土錘という漁網の底に取り付ける重りの出土品や、畑に物を植えるため土を盛りあげた畝(うね)の痕跡が見つかっていることから、農業と漁業の両方を生業としたことがわかっています。その後、6世紀頃には柴又、奥戸、東新小岩あたりに集落が形成されていました。区内最古の古墳である「柴又八幡神社古墳」は、6世紀後半の有力者の墓と言われています。

八幡神社古墳

御殿山公園

■2 中世(奈良時代~江戸時代前)の葛飾区

平安時代頃の葛飾は「下総国葛飾郡」に属しており、そのうち「大嶋郷」が葛飾区の地域でした。
平安時代には各地域に荘園(貴族や社寺の私有地)が生まれています。葛飾区域にあたるエリアには、「葛西御厨」(かさいみくりや)という特別な荘園が生まれました。葛西御厨は、中央政府ではなく伊勢神宮に産品を寄進することで領地の保護を得た荘園で、稲作のほか、牛馬の飼育、麻の栽培、薬草の採取などが行われていました。

奈良・平安の時代には、中央と地方をむすぶ道路整備が進んでいます。墨田区墨田・葛飾区立石・江戸川区小岩間に道路が存在していたことが地図上で確認でき、これが東海道であったと考えられています。「大道」という地名がこの道路沿いに残っていることもこの説を裏付けています。

15世紀の戦国時代、葛西は武士団同士の勢力争いの前線となり、青戸の御殿山に「葛西城」が築城され、付近で「国府台の戦い」が起こりました。葛西城は1590年、豊臣秀吉(天下統一を成し遂げた武将。刀狩など様々な政策も行った人物)によって攻め落とされて壊されました。

葛西城があった時代、小田原などから水戸や佐倉を結ぶ街道が整備され、その分岐点に「葛西新宿」(にいじゅく)という宿場町が生まれました。

葛飾城址公園

旧中川の風景(撮影場所は江戸川区)

■3 江戸時代の葛飾区

江戸時代に入り、葛飾は下総国から「武蔵国」の管轄下に移り、葛西御厨は幕府領となりました。領内では数々の治水工事や灌漑整備が行われ、葛西用水、小合用水、上下之割用水などの用水路とともに、新しい農地が生まれました。
農地では大根、ナス、キュウリ、ネギ、カブなどを生産し、葛飾区から江戸への近さも活かし、江戸市中に運ばれていました。それらの野菜は、江戸での評価も高いものでした。

江戸期になると江戸と水戸(茨城県)を結ぶ水戸道や、江戸と佐倉(千葉県)を結ぶ佐倉道を通行する人も増え、葛西新宿が栄えました。その先の江戸川沿いでは、水戸道に「金町松戸関所」、佐倉道に「小岩市川関所」が設けられました。関所では特に「入鉄砲と出女」(江戸に持ち込まれる鉄砲と、江戸から出る大名の人質として江戸に住む女性)の監視がおこなれていていました。また、当時、橋はひとつも存在せず、中川も江戸川も「渡し」で往来していました。その一つが歌謡曲でも有名な「矢切の渡し」です。

葛飾の一番の観光名所は柴又帝釈天こと「題経寺」でした。曳舟川では陸から綱で引く「曳舟」が観光客を楽しませ、江戸末期には堀切に「小高園」と「武蔵園」のふたつの菖蒲園が生まれ、日帰りで行ける葛飾は、江戸っ子の保養地、旅行先としても人気の地でした。「小高園」は、徳川家の将軍親子が鷹狩りの際に立ち寄った場所でもあります。

帝釈天

矢切の渡し

■4 明治時代~戦時中の葛飾区

明治時代に入り、1871年の廃藩置県で葛飾は「東京府南葛飾郡」となります。明治時代も主な産業は農業でしたが、舟運を活用できる新たな産業として、レンガ製造業が盛んになりました。1872年、小菅に造られた「小菅煉瓦製造所」では、英国から技師を招いて「ホフマン窯」を導入し、「日本初の近代的レンガ工場」と言われました。ここで作られた高品質なレンガは銀座の街でも使われ、銀座が西洋のようなまちなみとなりました。

大正時代に入ると、豊富な水と舟運が有利に働く製紙業の工場が進出し、中でも1913年創業の「日本紙業亀有工場」と、1917年創業の「三菱製紙中川工場」は大規模な工場でした。「日本紙業亀有工場」のあった場所には、現在は「アリオ亀有」が開業しています。「三菱製紙中川工場」で使用されていた蒸釜は、「地球釜」として現在も「にいじゅくみらい公園」で見ることができます。

また、1914年に東立石に「千種セルロイド工場」、1918年に新小岩に「関口セルロイド加工所」が創業しました。「リカちゃん」「トミカ」「モンチッチ」など、日本はもちろん世界にまで多くのおもちゃを発信してきている「おもちゃのまち葛飾」の基礎を作りました。

交通関連では、明治時代に入ると関所が廃止されて橋が架かり、鉄道網が発達しました。1872年に、新橋・横浜間で日本最初の鉄道が開通しました。1894年には総武線、1895年には常磐線が開業し、1897年には葛飾最初の鉄道駅として亀有駅と金町駅が開業し、のちの工場創業と合わせて、多くの人々が働き暮らす街となっていきました。金町駅の開業後、柴又帝釈天への参詣者が増加しました。その交通の便をはかるため、金町・柴又間を、人が客車を押してレール上を走行する、帝釈人車鉄道も開業します。

明治時代の葛飾の一大事業と言えば、「荒川放水路」も外せません。荒川放水路は明治時代まで氾濫が頻発していた旧荒川(隅田川)のバイパスで、足立、葛飾、江戸川の3区の農地や宅地を国が買収し、約20年の大工事となりました。工事のために、多くの人が住む場所を移り、建物の移転も行われました。鉄道や神社なども移転し、完成したこの水路は、東京都心部の水害軽減に大きく貢献しました。

葛飾の産業が農業から工業に移行していく中、1923年の関東大震災後、多くの人が葛飾区へ移り住んで来ました。都心への移動がしやすい立地であることや、田んぼや畑が多く住宅に利用できる土地があったことなどが背景です。1920年から1925年の5年間で葛飾の人口は2倍に増えましたが、この流入人口を活用して区内の工業はさらに成長し、産業の主軸となりました。

帝釈人車鉄道(出典:葛飾区郷土と天文の博物館・歩鉄の達人)

三菱製紙中川工場で使用されていた釜「地球釜」(にいじゅくみらい公園)

■5 戦後の葛飾区

戦時中、大きな空襲被害を免れた葛飾では、早くから復興が進みました。都心から避難した人が暮らすようになり、金町・亀有・立石の駅前では闇市が発達し、商店街を形成していきました。

工業は全体的に成長し、区内の工場数は1950年の1017軒から、1970年の4736軒と短期間で激増しました。最も多かったのは金属関連工場でしたが、葛飾独自の産業として、おもちゃ関連産業も発達しました。
工業の成長とともに区の人口も急増し、青戸や金町などには巨大団地が造成され、1955年に29万人だった葛飾区の人口は、1970年に47万人まで増えました。

1990年代のバブル崩壊を機に工場の郊外移転や海外移転が進み、工場の跡地には公園、商業施設、マンションなどが建てられました。亀有の日本紙業跡地には「アリオ亀有」が、金町の三菱製紙跡地には「にいじゅくみらい公園」と「東京理科大学」、何棟ものマンションも建てられました。

新小岩の「セキグチ」が1974年に発売した「モンチッチ」のモニュメントのあるモンチッチ公園

新小岩商店街

■6 今後の葛飾区

この十数年ほどの間に、葛飾区では工場跡地を中心に多くのマンションが建てられ、人々が暮らす街としての変容が進んでいます。その流れは今後加速し、駅前の再開発と合わせた大規模なマンション建設、駅前商業地や交通広場の整備などが進んでいきます。

代表的なのは、現在進行中の金町駅前の再開発と、今後着手される新小岩駅前の再開発です。金町駅前では今後、主に駅の北側地区で開発が進み、「にいじゅくみらい公園」と金町駅を結ぶ新しい街並みが生まれる予定です。

新小岩駅周辺では区内最大規模の再開発計画があり、マンション、商業施設、公園などが整備される予定です。駅周辺の回遊性や利便性が高まるとともに、不燃性・耐震性を備えた施設の開発により、現状の建物の老朽化や防災上の課題を解決します。
また、オープンスペースの確保により、駅前ににぎわいが生まれ、多様な世代が交流、快適に暮らせるような街への発展を目指しています。

今後数十年の間に、葛飾の「まちの姿」は大きく変わりますが、街が変わっても長く大切にされてきている下町の風景、この街らしさは守られ続けるはずであり、ゆえに、下町人情も受け継がれていくことでしょう。将来の葛飾は「きれいで住みやすく、人があたたかい街」として、人気を集めるのではないでしょうか。

新小岩駅直結 「JR 新小岩南口ビル」(2023年10月開業予定)

帝釈天参道

■7 伝統・文化 ミニコラム「東京本染」

日本の夏の風物詩のひとつ「ゆかた」は、「浴衣」と書くように、もともとは湯上がりに家の中で着るものでした。それが外で着られるようになったのは、明治時代に「注染」という染色技法が生まれてからでした。

この新しい技法によって、色鮮やかな反物が手作業で量産できるようになり、浴衣は「夏のおしゃれ着」として定着していきました。注染は全国的に普及しましたが、関東産のものを特に「東京本染」と呼んでおり、主に葛飾区、江戸川区、足立区で生産されました。

東京本染の浴衣は各地の老舗呉服店で取り扱っているので、「東京本染」で指名買いをすれば、伝統技法ならではの美を楽しめるでしょう。より気軽に体験したい人は葛飾区立石にある「東京和晒創造館」を訪れれば、本染手ぬぐいの購入や、注染の体験もできます。

東京本染